その一 その二 とまとりあ物語

油川の歴史 その一 (室町から現在までの概略) 油川の歴史 Back_No
 昔々、油川川の上流の原野に鶴の親子が住んでいた。ある年、野火が起こって巣の近くに燃え迫り、まだ飛べない雛鶴をかばいながら親子共々野火に巻かれて死んでしまった。このとき鶴の体から出た膏(あぶら)が川に浮かんで流れ出たことから、この川の名を膏川と言い、膏川は、後、油川となり、その下流にできた村の名前も油川と言うようになった。
 
 油川港には、すでに鎌倉時代から北越(山形)の船が交易のために入港していた。

 室町時代には浪岡北畠家が祈願所にしていた熊野宮があり、また、近畿北陸からの移住者が集まって二軒の門徒寺、円明寺、法源寺を抱えていた。後背丘陵には南部系豪族奥瀬家が、数代に渡って油川城を構え一帯の治安を確保していた。さらに、地理的に海陸交通運輸の拠点であったことから、油川は青森や弘前のような近世都市出現以前に、早くから中世都市として機能を果たしていたものと考えられる。

 1585年(天正13)、津軽為信が千余の兵を率い油川城攻略に出た。折から3月末の雪解けの頃、これを迎え撃つ奥瀬軍は地の利を生かして激しい山岳戦 を展開し、一旦撃退した。しかし、城は明け渡され、為信勢は全軍油川に進駐し本陣は円明寺に置いて5日間滞在した。このとき雑兵たちは野営したに しても、重臣クラスは一般の民家や商家に泊まったとすれば、少なくとも当時の油川には百戸以上のれっきとした建物があったことになる。

 1625年(寛永2)、津軽藩は青森を開港し外ヶ浜の船商売は青森一港のみと定めた。中世以来の貿易港油川港はここで窮地に陥った。このとき、開港奉 行森山弥七郎は、従来の油川港の存続を藩主津軽信牧へ強く進言したが受け入れられなかったという。この話は油川には代々語り伝えられてきた。森山の供養碑は浄満寺境内通称”かのど山”(観音堂山)にあり、菩提寺浄満寺および一般町民によって数百年来絶やさず香華が手向けられている。

 江戸時代には、ここに油川後潟両組代官所が置かれ代官が派遣されてきた。代官所のほかに港には港番所が、また治安のために別段取り締まりという役所
も置かれ、それぞれ藩士が常駐して地方行政を推進した。天明と寛政の一時期、津軽藩は大庄屋制を取り入れ、このとき油川の西田三郎右衛門は油川後潟両組大庄屋に、また、窪田七三郎は浦町横内両組大庄屋に登用された。西田(綿屋)、窪田(菊屋)両家は豪商であったが、他に御用金献上者としてランクされた豪商に三上重兵衛、西澤伝四郎、平井津兵衛(近江屋)らがいた。このうち三上は江戸後期の長者番付では前頭二枚目に付けられている。1868年(明治元年)には函館戦争に向う数百人の新政府軍が約半年の間油川に駐留した。越前大野藩(福井県)の本陣は三上重兵衛邸に、備後福山藩(広島県)の本陣は菊谷伊右衛門邸に置かれた。明治大正の文豪森鴎外が、そのときの様子を史伝小説『伊澤蘭軒』に数ページを割いて書いている。

 1871年(明治4)新城青森間に道路が開通し、油川の人馬の往来は急激に減って中世以来の宿場町の地位は完全に奪われた。この打開策として1887年(明治20)、西田安兵衛が提唱し、油川から北郡飯詰村(五所川原市)に至る道路を切り開いた。これが飯詰街道であり、現在のあすなろライン、主要地方道青森五所川原線のベースになった。

 1918年(大正7)、イタリア人ファブリーが、市兵衛川河畔に大規模な缶詰工場を建て操業した。青森県内での外国企業誘致の先駆けであったろう。
 1919年(大正8)町制施行。1932年(昭和8)、寺内野に飛行場が完成し東京仙台札幌間をつなぐ定期旅客機が飛来した。
 1939年(昭和14)青森市に合併、現在に至る。(木村慎一)
大正時代の新井田川(新城川)新井田橋 大正時代のフランコイタリアン会社
(現丸敏水産)