『とまとりあ物語』を紹介します。 油川の歴史 Back_No
 わたしたちの町は、トマトとイタリアに古くから関わりがある町です。物産館のニックネーム「とまとりあ」は、トマトにイタリアの”リア”を付け合せてできた言葉です。
 さあ〜、『とまとりあ物語』のはじまりです。

 
 その昔、今から九十年前の大正五年(1916年)の十二月、イタリア人ジュセップ=ファブリーがはじめて油川にやって来ました。ここで、イワシの缶詰を作りたいというのです。初めは民家を借りて少しずつ生産していましたが、二年後の大正七年(1918年)、下町市兵衛川のほとりに約一ヘクタールの土地を買い求め、大きな木造の工場とレンガ造りの事務所兼住宅を建てました。そしてここでイワシ、マグロ、マルメロ、グリンピースなどの缶詰を本格的に生産したのです。製品は日本国内にも出荷されましたが、親会社を通じて母国イタリア、また、東南アジア方面にも輸出していました。

一方、ファブリーは、食べ物を自給するため寺内野に三ヘクタールの土地を買い、ここに農場と牧場を開きました。牧場で牛、馬、ニワトリなどの家畜を飼い、畑にはトマト、ジャガイモ、グリンピースなどを植えました。働く人は工場と農場合わせて八十人ぐらい、油川や近くの農村の人たちが雇われて来ていました。

 ところで、トマトが、農事試験場以外の一般の農家で栽培されるようになったのは昭和に入ってからだそうです。しかし、油川ではそれより一昔前の大正七年(1918年)、食用として確実に栽培されていましたから、油川がトマトの発祥地といわれてきたわけです。

ファブリーの缶詰工場には、本国から取り寄せたピカピカの二重式ボイラー、封縅巻き取器、製缶機、調理台などが設置され、床にはトロッコの線路が敷かれていました。また、海岸には三十メートルぐらい海に突き出した桟橋が架けられ、そこに、エンジン付きの漁船が係留されていました。

 一方、そのころ青森市内には缶詰業者が二軒ありましたが、まだ家内工業、手工業の域を出ない生産体制だったので、ファブリーの近代設備を施した工場を見に来て驚いてしまいました。そのことが、その後の青森市缶詰工業を盛んにする重要なきっかけになったといわれているのです。また、青森県内外国企業誘致の先駆けでもあったでしょう。

 ファブリーが工場を建設するため用地買収や設備投資に使った費用は、当時のお金で二十万円でした。今のお金に帰るとざっと六億ぐらいになります。その巨額の費用は、ファブリー個人が出したものではなく、神戸のオンベール商会から融資されたものです。

 ファブリーは1886年、イタリアのローマ市ビア・デラビデ街十四番地に生まれました。青年時代にはイタリア近衛騎兵の下士官を勤め、日本に来たのは五十歳になってからです。
 初めは、神戸で外国映画のセールスをしていました。その頃、日本近海では故郷サルジニアに似てどこでもおいしいイワシ(サージン)が捕れることに着目し、その事業化を思い立ちました。先ず東京高等水産所を尋ね、青森県陸奥湾内で良質のイワシが無尽蔵に捕れることを教えられました。
青森県庁に来て当時の川村竹治知事と会い、むつ湾産のイワシを使ってこの地に本格的な缶詰工場を建設し生産に乗り出したい、と、相談したところ、知事は、油川村長西田林八郎を紹介してくれました、。
西田村長は、おりから、町制施行運動展開中のことでもあり、近代設備を持った缶詰工場が村に建てば、村が元気になり将来の発展につながると判断しました。このようないきさつを経て、イタリア人、ジュセップ=ファブリーが油川に来ることになったのです。

 しかし、工業が落成し、生産も起動に乗り始めた三ヶ月後の大正七年(1918)七月四日、ファブリーは病魔に倒れ帰らぬ人となってしまいました。すぐ工場は閉鎖、働いていた人は解雇され、建物の管理は村役場に一任されました。

 日本は全く身寄りがいないファブリーのため、葬式は村役場がやることにし、青森からカトリックの神父さんを呼んで寺内野墓地に丁重に埋葬しました。
後、昭和二年(1927)の十年忌法要の時は、ボイラーの上に十字架を立てたユニークなデザインの大きな墓が建てられました。昭和四十三年には、かつて工場や農場で働いた人達や、工場誘致に世話をしてあげた方たちが集まり、明誓寺で五十年忌法要がしめやかに営まれました。
墓は昭和七年(1932)寺内野が飛行場になるので明誓寺に移されていたのです。

 ファブリーの遺跡としては、明誓寺の墓のほかにイタリア館が残っています。
通称イタリア館は現在干物屋丸敏水産の住宅になっていますが、かつてはファブリーの移住棟であり、また、社名「フランコイタリアンオイルカンパニー」の事務室でもありました。道路ばたの倉庫や堀に建物当初の赤レンガがまだ見られます。
母屋の壁はモルタルが塗られていますが、下地は元のレンガのままです。母屋の奥にはパンを焼く釜も入っていました。
レンガはイタリア製で洋館の設計と建築は、親会社神戸オンベール商会から派遣された技師ユーネスが手掛けたものです。屋内は大分改造されていますが、各部屋のマントルピースはまだ昔のままです。ちなみに、建設当初窓のカーテン一式を調整したのが青森安方の淡谷呉服店で、営業に来た人は若き日の淡谷悠蔵さんでした。
数棟の牧舎や作業小屋が立ち並び、どこか異国の田園ムードを感じさせたと思われる寺内野農牧場は、その後、青森飛行場の敷地に含まれ、今の野木和団地の一画となってしまいました。

 二頭立ての馬車を乗り廻し、毎夜マンドリンを寂しげに奏でる異国の人の姿は、村人たちに驚きと美望の目で見られていました。
 ファブリーがこの町に滞在したのはわずか二年間でした。が、しかし、外国人が現地で経営した大規模缶詰工場がこの町に残した経済的文化的恩恵は実に大きいものでした。
故に、その功績は永く、また広く後世に伝え、町の歴史に溜め置くべきものと考えてます。さらには、今日の国際化時代のさなか、かつてわが町に起こったこの出来事を国際親善推進に役立てていくことが、一万町民に課されたこれからの大きな使命ではないでしょうか。  平成八年五月二日 元気町あぶらかわ物産館 (木村慎一)



大正時代のフランコイタリアン会社(現丸敏水産)