油川の見どころをシリーズで紹介します。まずは名所めぐりです。
   ※場所は、油川のマップでご確認ください。番号が符合します。
                    

 南部系豪族、奥瀬家数代およそ150年間の居城。 四つの郭、壕跡、土橋などの遺構が残る。

 天然記念物シナイモツゴが生息する沼。ここのシナイモツゴ俗称「ぬまちか」は平成12年(2000年)青森市天然記念物に指定された。

 古くは天然湖沼。大正11年(1922年)、町民の手でサクラが植樹されて以来、公園として整備が進められてきた。

 昭和8年(1933年)開山。毎年旧暦7月20日に護摩法要。また火渡りの儀式がある。境内の子安大師は子宝が授かるお大師様として有名。

 1932年から1945年までのこのあたり一帯は飛行場であった。東京〜札幌間の定期旅客機が飛んで来た。農協肥料倉庫は、当時の飛行機格納庫である。

 延宝元年(1677年)創建。宵宮は旧暦6月9日。

 寛文11年(1671年)森山弥七郎が筆頭願主として創建。宵宮は7月13日。

 謡曲「善知鳥」にも出てくる。昔、川の上流で鶴の親子が野火で焼かれ、その時体から出た膏が流れたので、この名があるという。

 大同2年(807)坂上田村麿創建。境内に文政4年(1821)伊藤彌七奉納の御影石鳥居、また拝殿に西田父子奉納の船絵馬が2枚懸かり、寛文5年(1665)舘田源兵衛奉納の狛犬一対が置かれる。宵宮は7月14日。

 元和元年(1616)創建。明治元年(1868)再興。

 大庄屋は油川後潟組二十六ヶ村を支配した。二代三郎右衛門直之が江戸中期宝暦年間(1755〜1761)と後期天明年間(1787)の二度藩から選べれて就任。三代三郎右衛門矩洞は郷士、代官所手代。四代源七は油川町庄屋。七代源蔵は油川町長。綿屋西田家は代々町の発展に貢献した。

 青森市と東津軽郡(外ヶ浜)でただ一軒の造り酒屋。創業明治11年(1878)。銘酒「田酒」および「喜久泉」の醸造元として有名。またここは、江戸時代の豪商三上重郎兵衛邸跡でもある。

 鎌倉時代からの交易港、北前船の出入りで賑わった。

 鎌倉時代正安元年(1299)、この辺りの沼のほとりに万海庵という祠があった。後に飛竜宮(ひりょうのみや)となり、坪田商店の隣にあったが、昭和40年ごろ現在地に移転して飛竜神社となった。治水利水の神で社殿に商売繁盛の神、蛇の絵馬が多く懸かり、横町獅子舞の本拠でもある。

 横町の作兵衛が獅子舞の宗家弘前松森町で修行を積み、戻って村人に伝授。安永3年(1774)氏神飛竜神前で舞った事に始まる。以来230年間、横町住民だけで筋目正しい舞を今日まで連綿と伝えている。

 菊谷は昭和初期東京で活躍した劇作家。碑の場所は菊谷栄の生誕地で、平成10年(1998)の建立。碑文〜春の日暮れまで、花の散るまで、日傘も二人、唄も二人で〜は、菊谷の作品小歌劇『男性bP』の一節。

 浄土宗金臺山し紫雲院浄満寺
慶長13年(1608)開山。外ヶ浜の最古の名刹。青森市有形文化財「円空仏」同じく「森山彌七郎供養碑」奥瀬一族の五輪塔がある。森山彌七郎墓前祭8月3日。地蔵様の宵宮は旧暦の6月23日。

 万治2年(1657)創建。津軽丁寧親公より拝領の御田扇を掲げる。旧暦の6月1日に宵宮がある。境内の末社は村上稲荷。

 延宝年間(1673〜1681)に造り酒屋を創業。幕府巡見士藤沢要人、幕府測量方伊能忠敬、九代藩主津軽寧親の本陣を勤めた。

 寛文12年(1672)野元道玄が、この川の水質をほめ酒造に適していると藩主信政公に答申した。これは聞いた油川の西澤伝四郎は、瀬田糸川を自邸に引き込み酒造を始めた。

 浄土真宗大谷派昭容山明誓寺。寛文3年(1663)開山。旧本堂梁に天保4年(1833)6代目窪田伊衛門寄進の文芸扁額。又境内には5代目伊衛門の句碑、他にジュゼッペ・ファブリーの墓および顕彰碑がある。

 字浪波返83番地、舘田氏宅地。ここに油川後潟組代官所が建ったのは寛政8年(1798)。文政6年(1823)に火事で焼失。その後、向かい側山田氏の宅地に移って明治に至った。この辺り俗に"ヤクショ"と今にいう。浦町横内組代官所がここ一ヶ所に統合され、浅虫から三馬屋(三厩)まで50ヶ村の農村を支配した。

 大正7年(1918)イタリア人ファブリーが缶詰工場を建て操業。この建物は当時の事務室兼居住棟。

 元、姥川と言い氾濫がしばしばあった。寛政12年(1800)下町の市兵衛が、それを止めるため「我河泊とならん」と自ら人柱になったという。

 元は坪貝稲荷宮。新井田川改修で川中に没した。山内村ツボ子夫婦が沼の主、龍神に引かれて入水したという伝説がある。

 元禄14年(1704)津軽藩がこの川にシロウオを放流させた。毎年数十羽の白鳥が飛来する。現新城川。

 車両基地は列車の始業点検をする所。基地は青森駅開業に先立って完工する。

 制札は高く掲げたので高札場ともいう。往来する旅人たちや町民に、代官が連絡事項を板面に直接書いたり、また、紙に書いて張ったりした。江戸時代ここは羽州松前両街道の合流点で、人や馬で毎日賑わっていた。

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